先生といわれるほどの馬鹿じゃなし(江戸川柳)

教師になりたての頃は、「先生」と呼ばれると分不相応に思って面はゆい気がしたものだ。ところが少し慣れてくると「先生」と呼ばれるのが当然と思えるようになって、さらに高じると「先生」と呼ばれないと腹が立つようになる。人間は何がしかの取り柄があって、それが評価されると気持ちがよくなって「先生」と呼ばれるのが当たり前の気がするのだが、少し冷静になって至らぬところに目を向けると、これが取り柄以上にたくさんある。そのために人を傷つけたり不利益を与えたりしてしまうなら、「先生」と呼ばれる資格などはないのであるから、人間は分相応に謙虚に生きたいものである。

「先生」と呼ばれていい気になっている人を「馬鹿」と一刀両断にする、江戸っ子の心意気を表す川柳である。

人の価値はその人のもつ知識や行動で評価されるべきもので、職業によってではないことを小学校で教わる。現場の技術者がいなければ著名な設計士がいくら頑張っても仕事は完成しないし、名もない陶工が生み出した傑作を人類はたくさん継承してきた。だから、力のある人は「先生」と呼ばれても呼ばれなくても必要な努力を怠らないというコンセンサスはできているように思う。一方で、「有名になりたい」、「世の中をリードしたい」という欲が高じると、社会に奉仕したり公の利益に貢献したりしていたとしても、私利私欲を優先する努力をも怠らないようになる人がいる。自分の職業に付帯する職業倫理をしっかりもって自己研鑽してほしいと思う。

教員については所定の科目を学習すれば教員免許状をもらえる。都道府県や私立学校の採用試験に受かると即「先生」と呼ばれる。医師や弁護士も国家試験に受かってしかる職場に勤めると「先生」になる。それなりの勉強をして試験に合格する努力は評価されていいが、それで「先生」とはいかにも甘い。実務経験がなくとも「先生」になれるわけで、自動車の免許証に例えると、免許を取っただけのペーパードライバーが「先生」と呼ばれるということだ。だから、教員は自分が「先生」とよばれるのにふさわしい資質があるかどうか、自分に厳しく自己研鑽をしてほしいものだと思う。

家庭教育の教師である親や社会教育の教師であるボランティアの指導者も同様だ。親が子供に教育するべきことやその方法を教わることはない。誰も親になる教育を受けていない。ボランティアの指導者は「監督」とか「コーチ」とか「先生」と呼ばれるが、教育の手法を教わっていなくてもなれる。だから、自分勝手な教育手法を子供たちに適用する親や指導者も多い。長ずると職場で指導的な役割につく可能性が誰にもあるだろう。子供たちや後進の尊厳を守ることの大切さを、子供のころから継続して教えることが、親やボランティア指導者や職場の指導者になるためには必要だと思う。この川柳の「先生」を「親」、「コーチ」、「リーダー」などと言い換えて吟味することは、指導者としての自覚を新たにするために役だつように思う。
もう一つ、併せて心したいことわざがある。

実るほど頭を垂れる稲穂かな

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